ユニバーサルデザインというと、高齢者とか、障害を持っている方も快適に暮らせるためのデザイン(ちょっと語弊があるかもですが。)なのですが。
念のため↓
ユニバーサルデザインの7つの原則
1.誰にでも使用でき入手可能(公平性)
2.柔軟に使用できる(自由度)
3.使い方が容易にわかる(単純性)
4.使い手に必要な情報が容易にわかる(わかりやすさ)
5.間違えても重大な結果にならない(安全性)
6.少ない労力で効率的に、楽に使える(省体力)
7.アプローチし、使用するのに適切な広さがある(スペースの確保)
実は、わたし高度な?高所恐怖症で
ガラス張りのエレベーターとか、ガラス張りの会議室・見晴らしのよい場所、見晴らしの良いお店などなど、全部だめなのです。
腰を抜かして、突然笑い出すか
突然なみだがぼわーーーーーーーーーーーーっとあふれるように出てくる。
そして、怖さの余り、笑う。
なぜ、高所恐怖症になったかは知りませんが(幼稚園の時にはすでに嫌いだった。ジャングルジムなんて、大嫌い)
高所恐怖症のためのユニバーサルデザインというのはないんでしょうかね。
絶対にガラス張りのエレベーターなんて、高所恐怖症の人にとって最悪だと思うのですが。
見晴らしが良いレストランにムードよく連れて行ってもらえたのに、途中で腰を抜かしてしまい、そこらの酔っ払いよりもたちが悪い状態になったりするんですけど。
って、どうでもいい話でした。
最近、見晴らしのいいところばかり行くので、ちょっと愚痴。(仕事でですが。)
実は数日前からROMっておりました。インターフェイスデザインを生業としておるものです。
ワタシはUDをこう捉えております。
ユニバーサルデザインは、お書きになっている意味合いより、「皆が使いやすいものが本質的に一番使いやすいはず」という「大は小を兼ねる」的イメージの方が適切だと思っております。だから誰用でもない。
健常者は少々の愚点があっても利用することは可能ですが、高齢者等は1点の愚点があっても使いにくくなる「品質眼の厳しい良客」その彼らが太鼓判を押した商品ならば、他の方が使いにくいわけがない。と感じております。
ですので、そのような汎用では使えない「専用を必要とする人」はおられるでしょうから、専用具はこれからも必要だと思っております。
話を戻しますが、今回のお話「高所恐怖症へのUD」は大変興味深い視点だと思います。ここで大切なのは、「どこまでの恐怖症対策がUD」で「どこまでを専用配慮」にするかという点です。
ガラス張りエレベーターには、ある一定量の高所恐怖症にならUD配慮は必要だと思いますが、それ以上の配慮にはデメリットも発生すると思います。その見極めが一番難しいのかもしれません。
Posted by: KOu | July 31, 2004 at 02:54 PM
KOuさま、はじめまして。
コメント有難うございます。モリマミコです。
さて、UDの興味深い話ありがとうございます。参考になります。
>健常者は少々の愚点があっても利用することは可能ですが、高齢者等は1点の愚点があっても使いにくくなる「品質眼の厳しい良客」その彼らが太鼓判を押した商品ならば、他の方が使いにくいわけがない。と感じております。
なるほど、納得。
ただ、その基準が本当に高齢者でいいのかと言うのは製品にもよりますよね。
彼らは「使いづらい」というよりも「そんなものか」と許容してしまう傾向が有り、若者が思う「高齢者はキット使いづらいだろう」が、本当に使い辛いかどうかと言うのはちょっと謎です。
なんていうのか、彼らに「太鼓判」はあるのでしょうか。
>「専用を必要とする人」はおられるでしょうから、専用具はこれからも必要だと思っております。
専用具は必要ですね。どこに、誰に対して使って欲しいかが基準になるんだと常々思っています。
>ガラス張りエレベーターには、ある一定量の高所恐怖症にならUD配慮は必要だと思いますが、それ以上の配慮にはデメリットも発生すると思います。その見極めが一番難しいのかもしれません。
例えば、私の場合、本当に高所恐怖症で(テレビで高い所を映すだけで気持ち悪くなる)日常生活に支障はないのですが、マークシティ@渋谷のエレベーターは、目の前にいっただけで膝がガクガクしてくる。エレベーターを降りたらお手洗い直行。
でも、私は(多分)少数派で、そういうのを容認してますし、病気みたいなものだから仕方ない。(トラウマ?遺伝?)
確実に、高所恐怖症の人の事を考えてしまったら世の中のデートスポットは半分消えます。多少のUD配慮は正直欲しいですけど、(本当に、外が見えるエレベーターはやめて欲しい。)その見極め、どこまで配慮する考えなくてはいけないですね。
すっごいUDって難しいですね。当たり前ですが、ひとくくりにはできないし、誰特別と言うわけには行かない。
妹の親友の車椅子の子は、目の見えない人のための黄色いぶつぶつが車椅子にあたって痛いと言うし、誰かにとってのよいことは、誰かにとっての悪いことだったりする。どこまでを許せるか、UDは成熟した文化にしか根付かないのかも知れませんね。自分が、自分がと言う場所では育たない気がする。
Posted by: モリマミコ | July 31, 2004 at 03:38 PM
>誰かにとってのよいことは、誰かにとっての悪いことだったりする。
という宇多田の歌詞のような姿は、UDでは理想としていなく、現実的にもそれはUDとは呼びがたいと、個人的には思います。
黄色いぶつぶつは、UDではなく専用具であると思います。だからそのような問題も発生するでしょう。
例えばユビキタス端末と地面に埋め込む非接触タグに変わればUD(具体的には、誰にでも利用でき、誰もが情報的に均一になる情報提供サービス)が可能です。ゼニさえあれば。
>彼らに「太鼓判」はあるのでしょうか
という言葉は、ボクのスキルと経験では全てを理解できないほどの、モリさんの職業ならではの重みを感じますね。何度かご指摘のある、いい意味での高齢者の再確認がボクにも必要なのかもしれません。
Posted by: KOu | July 31, 2004 at 06:50 PM
たびたび有難う御座います。
でも、実際に黄色いぶつぶつ(名前がわからないのですが)は、専用の場所にあるのではなく、ダレもが踏める場所にある。
それは専用具だから、問題が発生するのは仕方ないと言うわけには行かないですよね。それではUDの説得感が薄れてしまう。
どういう状態が、お互いのよいことなのか、それはお金を書ければいいのか、私にはそういう状況に無いのでなんともいえません。ただ、ひとくくりにUD=高齢者のことを考えて、介護介護!みたいな、そういう風潮はなんだか、しっくりきませんね。(雑誌とか読んでいるとその様に見える。解釈の違いならごめんなさい)
でも、今のうちからUDについて考えておかないと自分の老後が心配です。(うちのシニア軍団に、若いのに老後の不安していて珍しい、と言われますけどね。)
老後は、自分の先にあるんだってことを常に意識しながら、将来は自分に帰ってくることを考えながら「ゆにばーさる」が進めばいいですね。
ユニバーサルと言うのは、子育てみたいな物なのかなと思っています。甘やかしすぎてもだめ、厳しすぎてもだめ、愛が無いとだめ、正解はなくて、それでも最適解を望んでいるという。まぁ、妹しか育てた事無いので、想像の中で、ですけど。
Posted by: モリマミコ | August 01, 2004 at 12:45 AM